眼を綴じて、次に開けたら朝だった。自分的には1秒も経ってないような気がするが、夜はすっかり明けたようだ。なんだかタイムスリップしたような目覚めだった。
まず小平太は、ぱちり、と大きく瞬きをした。それで、今見ている光景が夢ではなく現実だと確かめた。
今、目の前に広がっているのは、深く茂った木々ではなく、長屋の天井。と、言う事は。
(あぁ、帰って来れたのか……)
安心するように、へにゃ、と小平太は顔を崩した。
そして、なら寝なおそう、とごそごそと布団に再び沈もうとしたのを、後頭部を蹴られた事で邪魔される。
「いってぇ!!!」
「起きているなら寝るな!」
その威力は結構強く、蹴られた箇所がズキズキする。寝なおすどころでは無くなったので、小平太は起き上がって蹴った相手に文句を言った。
「何するんだよ、もんじ!!」
見上げた先には、何かを乗せたお盆を持った文次郎が仁王立ちしていた。
授業前なのか放課後なのか。深緑の学生服に身を包んだの文次郎を見ただけでは、時間の感覚が戻らない小平太には解らない。
しかし解った事がひとつ。此処は、自分ではなく文次郎と仙蔵の部屋だという事。本が律儀に整理整頓されている机には火器の類が陳列しているし、何も物が乗っていない筈の自分の机には雑多な物が辛うじて均衡が取れている、といったようにテリトリー内に収まっていた。ちなみに小平太の机の上に何も無いのは、全部押し入れに突っ込んでいるからである。
さて小平太から抗議を貰った文次郎だが、それに当然、蹴っちゃってごめんね、なんて言う筈も無い。隈が濃い文次郎は、ちょっと表情を歪ますだけで物凄い迫力だが、それは小平太にはあまり通じない。
「お前……昨夜の記憶あるか?」
お盆を傍らに置き、小平太の横にどっかりと腰を降ろした。
「んー?」
そう言われ、布団の上で胡坐を組み、フクロウみたいに首を捻って思い出してみる。しかし、結果は。
「いやぁー、よく覚えてないなー!……なんか私、したんか?」
だったらごめんよ、と手をひらひらさせて言う。
その仕種があまりに小平太らしく、文次郎は完全に毒気を抜かれてしまうのをどうにか堪えた。
「結構な夜更けに学園に戻ってきて、そのままばったりだ」
ありゃ、と小平太は苦笑した。
どうにか学園に戻った記憶まではあったのだが、本当に意識もそこまでしかなかったとは。
(って事は……)
小平太は記憶を掘り起こす。そんな小平太に構わず……と、いうか小言を続ける文次郎に構わず小平太が思い出している。
「全くお前はなぁー。いつも言ってるだろ、勢いだけじゃそのうち潰れるぞ、と。
任務達成に全力を尽くすのは悪いとは言わんが、本当に使い切ってどうする。陣地内に戻ったからと言って、敵が皆無だという保証は何処にも無い……」
「なぁもんじ!私、最後まで残ったんだぞ!」
「聞けよ人の言う事は!!そういう所も改めろ!!」
「一刻も早くもんじに見せたくてなぁ!居ても経ってもいられんかったよ」
休んで行けという救護班すら振り切って戻ってきたのだと、小平太はそれは誇らしげに言った。
「………………」
言いたい事は山ほどあった筈なのだ。そう、山ほど。いやむしろ山以上。
だというのに……
”一刻も早くもんじに見せたくてなぁ!”
その一言に、何か呪いでも込めたか。自分に幻術でもかけたか。
(……クソ、)
何も言えない。
そんな文次郎の前で、小平太はまだ嬉しそうに言葉を綴る。
「最後の方はもう意識朦朧もいい所だったからなぁー。もんじと話したような記憶はあったけど、夢かも、って思ったし。あぁ、でもちゃーんと言えてたんだな」
「……おぅ、聞いた」
ぼそっと言ってみた。黙っているのも格好悪いと思ったからなのだが、なんかあまり格好良くない。
「て事は、此処まで運んでくれたのも、もんじなんだな。悪かったな。あそこまでばったり倒れるとは思わなかったんだ」
「……い、いやまぁ……お前も頑張ったみたいだったし……」
落ち込む相手にフォローする、なんて慣れない事をしている文次郎は、セリフの途中でごほごほと無意味に咳をしてみた。
しかししょんぼりとしていた小平太は、不意ににやり、と笑みを浮かべた。
「しかし、それとこれとは別だぞ。賭けは私の勝ちだ!」
「…………賭け?」
見覚えのない単語に、文次郎は眉を顰める。
「惚けるのはナシだぞ!私が一番になったら、食堂で何でも食い放題してくれるって約束だろ!」
「……いや、本気でそんな事を交わした覚えはないぞ……?」
無いのだが、あまりに小平太が自信満々と言ってくれるので、文次郎は少し自分の記憶を穿り返してみる。
小平太も、文次郎がはぐらかしているのではなく、本気のようなので自分の行動を思い返してみた。
「…………あ、」
と、声を出したのは小平太だった。
「……そーいや、そんな賭けをして、勝ってやるぞ、って思って、色々準備してて----実際にもんじとしてなかった……か……も?」
「かも?じゃなく、してないんだ」
ぎろ、と下級生に恐れられている双眸で小平太を射抜いた。小平太は、怒っちゃいやん、みたいにあはははは、と乾いた笑いをするばかりだ。
つまり、あれだ。
体力の限界を超えてまで、自分に結果を報せに来たのは、賭けに勝ったというのを証明したかっただけで、自分個人へ向けてではなかったという事だ。
(別に構わんがな!個人的に特に親しい訳でもないのだから!!!)
その割には歯軋りのあまり口の端から血が流れんばかりなんだが。
「はぁ〜ぁ、じゃ、頑張り損という事か……」
心底がっかりして小平太は言う。そのセリフに、文次郎が敏感に反応する。
「損だと?何を馬鹿な。授業の模倣訓練とは言え、曲がりなりにも合戦にお前は勝ったんだぞ!損とか無駄とか、どの口がほざくか!!!」
「あででででいででぇ-----------!!!」
文次郎は本当に容赦なく小平太の口を引っ張った。
「酷いなさっきといい!私は怪我人だぞ!?」
小平太は寝巻きを着けず、そしてその代わりになりそうなくらい上半身に包帯を巻かれていた。とてもきっちり巻かれているから、伊作にでも手伝ってもらったのかもしれない。
「ふん。動いて喋れる以上、例え怪我人でも情けはかけん」
「うわ、冷たっ!そんなだから、鬼とか言われるんだぞー!」
「鬼上等!まとめて掛かって来い!」
ふん!と鼻息荒く、特に必要も無くふんぞり返った。眉を吊り上げていた小平太は、そんな文次郎を見てぷふっと噴出した。
「何か可笑しいか?」
「いや、うん、もんじだなーって思っただけ。……なんかちょっと開けてただけなのに、凄い懐かしく思っちゃったなぁー」
「……大袈裟だな」
まるで遠くを見ているような小平太を、そう呟く事で呼び戻した。その時の表情が、昨夜の自分を見て微笑んだ顔と被ったからだ。
「ま、もんじの言う通りだな。損したって事は無い。ちゃんと自分の身になっているんだよな」
そう言って、小平太は文次郎を向き直った。
「なぁ、もんじ。一番になって凄いぞ、って言ってくれよ」
「……はぁ?何だいきなり」
「だって、それでも私は一番になったんだぞ?何かご褒美くれたっていいじゃないか」
「ご褒美って、お前なぁ」
文次郎はあきれ返っている。しかし、小平太はめげる事を知らない男である。
「いいじゃないか。たった一言くらい言ってくれても。もんじのケチ」
「ケチとかそういう問題じゃないだろ」
「目的を達する為には手段を選ばないのが忍者だろ!」
「それはそーだがこの場と何の関係がある!?」
「城に仕えるならさておき、フリーとして働くならそれは報酬目当てだろ?私はフリーとしてやっていくつもりだから、報いの無い労働は今からでも避るべきだと思うんだ!
と、ゆー事で褒めれ!今回はそれで良しにしよう」
「くぅ……!納得できないが、そういう話題を持ち出されると無下に断れん……!」
こんな解り易く具体的な弱点のある文次郎は、もしかしたら忍者には向いていないのかもしれない。
「ほらほら、もんじーv」
お手をした後、おやつをくれるのを待っているみたいだ。今の小平太はまるで。
「……褒めるなら、俺じゃなくてもいいだろう。伊作でも長次でも」
「そうだけどさ。でも目の前にもんじしか居ないんだから仕方ないじゃん」
「仕方無い……」
「わざわざ他のヤツ捕まえるのも馬鹿馬鹿しいし」
「馬鹿馬鹿しい……」
なんか……肩が重いな、とか思う文次郎である。
「それにさ、」
と小平太は言う。
「学園で一番忍者してるもんじに言われるのが、一番嬉しいと思うし」
「……………………」
「……もんじー?なんか、キツネに抓まれたような顔してるぞー?」
呆けたような顔をした文次郎の鼻先で、手をひらひらと振った。その手を文次郎はぐいと掴んで退かした。
「どうにもなっとらん。……仕方ないな……」
最後、ぼそっと呟かれたセリフは、言ってくれるという事だ。小平太は姿勢を直して、待った。
文次郎は、平静を装う為、一回気づかれないよう、静かに深く深呼吸した。
「……よく頑張ったな。偉いぞ」
若干視線を逸らせ、不機嫌にも取れるような低い声でだったが、小平太は嬉しそうに破顔した。
「……へへー、何か、照れ臭いな」
へらっと笑った小平太に、どうしてか顔が熱くなる。
「お前が言えと言ったんだろうが!」
「うわ、唾飛ばすなよ、汚いなー」
「……ったく!」
滅多に言わない事を言ったせいか、口の中がくすぐったい。収まるまで時間が掛かりそうだ。
「あ、そういや、長次はどうした?」
「……今朝、授業が始まる前に帰ってきた。お前と違って、自分の足で医務室へ行った」
「長次、大丈夫かなー。石とかぶつけちゃったし」
「お前だって、似たようなもんだろ」
「うん、まあね。……ひょっとして、手当てももんじがしてくれた?」
ただ包帯が巻かれてるにしては、痛みが無い。ちゃんと薬を塗ってあるみたいだ。
「新野先生にかかるまでの重症は無かったからな。まぁ、一応朝イチで此処まで呼んで診ては貰ったが、異常はなしとの事だ。しかし、おかげで、手持ちの薬が突きた」
「うわー、なんか、貸し作っちゃったかな?」
「とりあえず、お前の分の薬を寄越せよ」
「それは、勿論。……って、そもそもどうしてもんじ達の部屋なんだ?別に勝手に入っても構わないのに」
ここが文次郎達の部屋だ、と解った時に浮かんだ疑問だが、それより言う事があったので後回しにしていたのだ。
「……ろ組の長屋まで運ぶのが面倒だったんだよ」
「そうか」
小平太はあっさり納得した。
しかし、文次郎の本音はそこまでの距離の中でうっかり目撃されるのが嫌だったからなのだが。近くにあった自分の部屋で運ぶ事で、それは避けれたが最も見られたくないヤツに見られたのは痛い代償だが、それは避けて通れなかった。だって同室のヤツだから(つまり仙蔵だ)。
寝こみを襲うとは見下げたヤツだ、としれっと言われて真夜中の大紛争を巻き起こしたのは、まぁ知らせるべき事ではないから、黙っておこう。出来れば一生。
「なぁ、今は放課後か?」
「あぁ」
「……って事は最後に物を口にしてから、丸二日何も食べてないな〜。あー、腹減った」
それに合わせるように腹の虫も鳴ったので、文次郎は噴出した。
「そういうだろうと思って、ほれ、握り飯だ」
持っていた盆を、小平太の前まで出す。それに乗っていた握り飯を見て、火でも灯したみたいに小平太の顔が明るくなった。
「中身、おかか?」
「忍者は黙って塩むすびだ」
「忍者関係ないって。まぁいいや。いっただきます!!」
と、言ってばっくん!と口に頬張った。
「おい、一口かよ」
大きくはないが、小さくもないそれが、あっさり小平太の口に収まったのに、少し驚く。そして小平太は人体の不思議を見せ付けるかのように、口の中の握り飯を順調に飲み込んでいた。
のだが。
「う゛っ!?……ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛〜〜!!!」
一瞬顔を強張らせたかと思ったら、半身を沈め、悶えるような声を出した。
「喉に痞えたか!?一度に詰めすぎだ!」
文次郎のセリフに、ぶるんぶるんと首を振った。違う、と言いたげだった。
「み、水……っ!水くれっ!早く!!!」
物が喋れるくらいになった小平太は、真っ先にそれを伝えた。それも、必死に。よく解らないが、文次郎は言われるままに水の入った湯飲みを差し出す。受け取った小平太は、それを一気に飲み干した。
「……っはぁぁ〜〜」
「どうしたんだ?一体」
「……口ン中、すっごい沁みた。どっか切れてるみたい」
左頬を押さえているから、たぶんそっち側なのだろう。
「さっき馬鹿でかく口開いたから、傷も開いたんだろうな」
「……あー、何か地味に痛い」
「酷いのか?」
「うーん、舌でなぞると切れてるって感触があるなぁ。
もんじ、ちょっと見てくれよ。上の方な、上の方」
「あー?どれ」
何となく今までの流れて、さしたる抵抗も無く口の中を覗く文次郎。顎を取って、見やすい角度を勝手に調整する。
で、そんな時、廊下側が騒がしくなった。
「七松先輩が帰ってるって、本当か!」
「はい!乱太郎が新野先生に聞いたそうです!」
「ならば次期体育委員長の私としては、是非見舞いに行かねばな!」
「しかしなんで潮江先輩の部屋に?」
「次屋先輩、違いますこっち、こっち!」
「七松先輩、大丈夫で………っ」
小平太に会える期待に眼を輝かせた金吾が、すぱーん!と襖を開ける。その後ろに委員全員が勢ぞろいしていた。
で、そんな皆が目撃した場面と言えば、文次郎が小平太の顎掴んで顔を近づけている所だった訳だ。
コキーンと空気が凝固したような沈黙が室内に落ちる。
しかし、そんなのを微塵に感じてもいない小平太が、皆を振り返り朗らかな笑顔を送る。
「よぉ!皆元気だっ……」
「しししししし、失礼しましたぁぁぁ-------------!!!」
ばずーん!
ちょちょちょ何だ何だったんだ今のは!言うな言うな何も言うな私は何も見ていない見ていないぞ!いやー、でもだから潮江先輩の部屋に、次屋ー!だからそっちじゃないと言ってるだろー!うわーん、七松先輩ー!!
どたばたどたばたどたばた、と来た以上の音を発しながら、体育委員の面々は去って行った。そんな後輩達に、小平太はきょとんとするばかりで。
「なんなんだ?なぁ、もん……じ?」
「!!!!!!!」
小平太は文次郎に向き直ったが、しかし文次郎は、物凄いスピードで後輩達を追いかけた。ちょっとして、ぎゃー、とかひー、とかいう悲鳴が聞こえたから、多分追いついたのだろう。
「????」
何がなんだか、さっぱり掴めない。自分の知らない事で、何かあったんだろうか。なら、当事者達に任せよう、と、小平太は残りの握り飯を口内の怪我に気をつけて食べ、それからまた布団に寝包まった。
意識が眠りに落ちる直前、違うと言ってるだろうが馬鹿たれがー!という文次郎の声が聴こえたような気がしたが、意味が解らないのでほっといた。
しかし文次郎にとって不幸なのは、小平太の理解が無かったより、それを仙蔵に見られた事だろう。
<終>
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