その人には小学校の校長という身分があったが、畑に立っていたらそのまま農夫として何の疑問を抱かれる事無く思い込まれるだろう。そんな人だ。気遣い無く言ってしまえば、オーラが無い。
「いや、もう、こんな事は本当に初めてでして、本当に、どうしていいか解らないのです。本当に」
そんなに長くないセリフの中に、この人は「本当に」という単語を三回も使っていた。本当に困ってるんだろう。
「まぁまぁ落ち着いて。お茶でも飲んだらどうですか?」
と、店長が低いテーブルの上の湯飲みを進めるが、それを持ってきたのは此処の教員だ。
そう、此処はいつもの店ではなく、ちょっと離れた小学校にまで来ていた。遠足に出かけるような距離を、ワタシ達は電車と徒歩でやって来た。
……何故ワタシまで!
ワタシの名前は阿柴 夢。夢と書いて「のぞみ」と読む。中高一貫性のサン・イースト学院中等部三年生図書委員部活無所属十五歳で、探偵の助手とかでは決して無い。
そして、この人も探偵ですらない。横で座っているこの店長の名前は、落葉 茶紀。国籍不明、年齢不明、名前も本名なのかどうか解らない。はっきりしているのは茶葉専門店「Fall
Laef(フォール・リーフ)」の主であるという事と、その店の住所や電話番号くらいだろう。あと、お茶がとても好き、という事。
背は日本人にしては高く、顔は有名ファッション雑誌の表紙を堂々と飾れるほどだ。何処かの魔法使いみたな丸いめがねは、一見人が良さそうな性格に見せているが、実際はその一回転半したものだと思ってくれればいい。
今日は土曜日。いつも通り来てみれば、ちょっと出かけるよと、という軽い一言の元、ちょっとどころではない距離を移動してきた。
通されたのは校長室。大きく広い机、ソファ一式とオーク材のタンス、観賞植物がある部屋だ。下はグレイのカーペット。
土曜日とは言え、来る人は来るから、外からは運動部の掛け声がするし、横の職員室のドアが開閉する音も聴こえる。
どうして此処に来る事になったのか、は店長があっさり教えてくれた。
「ここの校長宛にね、家に脅迫文が届いたんだよ」
その一言で。
「で、これがその実際の物です」
落ち着く、というのを知らないのか思い出せないのか、校長はせかせかと懐から紙を出し、せこせことそれを広げ、もったいぶる様に両手で渡した。店長の手の中にあるそれを、横から見る。そこには、
『音楽祭を中止しないと、自殺する』
という呆気ない内容だった。明朝字体でパソコンで打ち、プリントアウトした文字なので、筆跡鑑定は出来ない。が、少なくともこの差出人がプリンターを扱えるくらいの知識がある人物だというのは解る。解った所でどうしようもないが。
ハンカチを出し、頭との境が微妙な額を拭く。緊張の為の汗をかいたようだ。
「全く、何故、こんな事に、本当に………」
また「本当に」って言った。他に気が向く物がないから、気になってしようがない。
「この事を、他の誰かに報せたりは」
「教頭と学年主任と、後古くから居る先生方に。年若い人や今年赴任してきたばかりの人には、言ってません。上に言った人達に、すぐさま心当たりは無いか、と訊いたのですが、皆、無いと言っていました」
「保護者には言ったりはしてないのかい」
「いえ、そんな事は!悪戯に煽るだけですから。事は慎重に運ばなければなりません」
多分本音は、責任を取らされるのが嫌なだけだろう。
「音楽祭は、もう一週間後なのです。何もこんなぎりぎりになって出さなくても……あぁ、いやいや、とにかく、それまでにこの差し出し主を見つけて、自殺を思い止まらせてください。お願いします。本当に」
五回目だ(「本当に」と言った数)。
「まぁ、それなりな事はしてみる事にするよ。それで最悪の結果になっても、警察に通報しないで一回の茶葉屋の主人に任せた自分を呪ってください」
なんてフレンドリーに突き放す人だ。
「そ、そんな!貴方は警察と一緒に、いくつも事件を解決したと聞きました!」
「一緒に、ね。あくまで私がしたのは、三分クッキングでいうと「此処にあらかじめ30分漬け込んだ物があります」っていうヤツの、漬け込んだ人くらいなもんさ」
それって実質、物事をした張本人って事じゃないですか、店長。
「まぁ、一応相談相手くらいにはなるさ。とは言え、私の本分が茶葉屋の主人だというのを忘れずにね。
……それはちょっとさておき」
おいちゃうんだ。
店長は、湯飲みを目の前にまで掲げ。
「このお茶……何処の店のものなんだい?」
まぁ、確かにそれはワタシも気になっていた。学校で出されるお茶としては、とても美味しい。多分番茶だろうそれは、鼻腔に香ばしさと、舌に心地よいくらいの渋みや苦味を残してくれる。
「は?……あぁ、それは買ったといいますか、私の弟の茶畑で採れたものでして……実家がそうなんです」
なるほど。さっき農夫のようだ、と思ってしまったのは、校長としてのオーラは無いが、農業人としての気質は備えてるという事の表れか。遺伝子とは凄まじい。
「……そうか……」
湯飲みを木製の受け皿に戻す。その時のメガネが、どこかの名探偵が謎解きするみたいに、キラリと光った。
「ここで知り合ったのも何かの縁だ。弟さんに取り次いではくれないだろうか。この茶は、素晴らしい」
「あ、はぁ……」
気の抜けたサイダーみたいな返事を校長はした。
それにしても店長は、人に関しては滅多に褒めないが、お茶相手だと美辞麗句がすらすらと出せる。
「さて」
と、場を仕切りなおしたのは、空気をぐだぐだにした店長だった。
「いくらなんでも、この手紙だけでは探せる筈が無い。知りたい情報、教えてくれるよね」
「は、はい!それは勿論!」
校長の首は、振り子の虎のように何度も上下した。
「まず、この音楽祭がどういうものなのか、教えてもらおうか」
「はい。音楽祭と言っても、つまりは発表会のようなものです。その前にすでに学年発表会を済ませ、優勝クラスが歌っていく訳です。一、二年生に合わせる為、金曜日の一時間目から四時間目で行われます。つまり、一週間後……いや、六日後ですか。に、なります」
自分で言った事に、自分で校長は焦ったようだ。六日後か。一から何かをするには、少し時間が足りないかもしれない。
「何か特別な賞がもらえる、というような事は」
「いえ、何も。本当に。本当に歌って終わり、なだけです。その筈です。……多分」
何故だか、口調がどんどん自信をなくして言った。校長は、再び額を拭く。
「実は私も、今年の四月にこの学校の校長に任命されたばかりでして……それまでの行事の、生徒の動向とか関心の度合いには、いまひとつでして……」
「なら、把握している範囲で構わないよ。出来れば、後から人に聞いてより詳しいのを教えてくれると幸いだけどね」
「それはもう、勿論!
で、話を戻しますが、確かに学年優勝クラスは市の合唱コンクールに出場しますが、かと言って命を絶つ程の事では……」
「自分で括りをつけない方がいいよ。不測の事態はそこら中に散らばってるからね」
「す、すいません」
膝くらいの高さしかないテーブルに、頭が付かんばかりだった。
その間、ワタシはちょっと考えていた。クラス別、という事は、例えば一人物凄い上手い子が居たとしても、周りが下手な連中ばっかりだったら、その子はそのせいで出れなくなる訳だ。それを、本人が自覚していたら。だとしたら、可能性が高いのは後が無い最高学年……六年生だろうか。それとも店長が言ったように、括りをつけてしまうのは、危険だろうか。今の小学生、本人がその気なら一年生だってキーボードをブラインド・タッチで打てる。
とは言え、今の校長の言葉を借りてしまうが、ワタシもこの事で命を絶つ程でもないと思う。そんな自覚がある子なら、進学の時にそういう学科に力を入れている学校に進めばいいだけの話だ。……待てよ、このコンクールに出場すると、内申点でもつくとか?もしそうなら、受験に有利になる。
音楽祭で歌うクラスにそういう子が居たら、ライバルに塩を送らないよう、音楽祭を潰そうと企むかもしれない。
「仮に音楽祭を中止したとして----」
店長が言う。
「この優勝クラスの子達は、ちゃんと市の大会に出場出来るのかい?」
どうやら、同じ事を考えたみたいだ。
「はい、そのつもりで居ます。脅迫文が来なければね」
校長が効かせたつもりのブラックジョークは、ブラック過ぎたようで言った本人が顔を青くしている。
そうか、影響は無いのか……でも、それを差出人が知っていなければ……
「今までに音楽祭を中止した事は?」
「あります。と、言うか去年でした。体育館の建て直しの都合で、中止せざるを得なかったのでしょうな」
校長は思い出すように言った。
そして解った事。そういう事情があるから、おいそれと簡単に今年は中止します、とか言え出せないんだろう。校長就任初年、というのも合わせて。今の校長の肩には、生徒の命、というものの他に、面子というものが重く圧し掛かっているに違いない。
校長は、不意に深くて重い溜息をした。
「本当に、どうして今年なんだか……」
色々と詰まってそうなセリフだった。去年なら無関係だった。来年なら簡単に中止出来た。そんな素振りを思わせる口調だった。
「音楽祭で何をするとかは?プログラムとか書いた紙があれば、見せてもらいたいな」
「あ、それなら原稿がすでに出来上がっていたような……生徒全員に配るんです。プログラムは。ちょっと、持ってきます」
座っても小柄な校長は、立っていても小柄だった。でもその小さい体躯は、何かと屈んで作業をする事の多い農業の人には相応しい体形なんだろう。いや、この人は校長なんだが。
校長は部屋を出て、隣の職員室に入ったようだ。校長が不在になった為、この部屋では店長と二人きりになった。なので、なんとなく聞いてみる。
「これ、本気で自殺するヤツが出したと思いますか?」
「さぁ、どうだろうね。私に解るのは、このお茶が美味しかった、という事さ」
深刻でないその口振りは、この脅迫文が本気ではないと思っているのだろうか。いや、この店長は、本当に人が死ぬ時でも、今と同じ顔をしているに違いない。
「ただちょっと気になるのは、校長の家に届いた、って事かな。悪戯なら学校のポストに勝手に入れておけばいいし、本気でもそれでいい。わざわざ個人宛にしたのが、気になるし、きっと鍵になってるんだろう」
なるほど。言われればそうだ。調べれば解らない事もないけど、そうまでする必要があるだろうか。
文部省に出せばそれは大騒ぎしてくれるだろうけど、校長に出したんじゃ、黙られればそれまでだ。
「と、ゆーかどうしてこんな事、引き受けたりしたんですか」
店長がこの学校の行く末(正確には校長の行く末だが)を本気で心配するとは、到底思えない。茶園に放火予告が来たというなら、納得出来るが。
「まぁ、そんなにいかにも面倒臭い顔をするものじゃないよ。こうして、美味しいお茶に会えた事だしね。君は紅茶より日本茶の方が好きだろう?」
確かにそれはそうだけど、それと引き換えにこんな厄介ごとを背負いたくない。
いや、まさか。
「目的は、このお茶だったんですか。いえ、これなんですね」
きっと、どこかでそんな噂を聞いたに違いない。店長はいきなりおしかける厚かましさはなくても、飛び込んだチャンスは逃さない、抜け目無い人なんだ。
「三笠君は遅いねぇ」
店長はすっとぼけた。ちなみに三笠というのは、校長の名前だ。店長は相手の性別年齢構わず、相手を君付けで呼ぶ。
噂をすれば影、というが、店長がその名前を呟いた時、三笠校長がやって来た。A4サイズの紙を2枚と、逆の手には急須を持っている。あのお茶がまた飲める、という仄かな喜びと共に、話が長くなる予感にげんなりした。
「これです」
さっき脅迫文を渡した時のように、ガサガサと大袈裟な音が立つ。指先にまで、動揺が詰まっているんだろう。
「ふぅん………」
机の上に並べなれた紙を見て、店長は呼吸のような相槌を出した。
どうと言えば、どうって事もない原稿と、その内容だ。出来上がりは二つ折りにしてA5サイズになるらしい。横書きで、大きくも小さくも無い字でプログラムが書かれている。全学年に合わせて作ってある為、漢字には全部フリガナが打ってあった。
横にした紙の、左には音楽祭の進行予定表、右は各学年の発表する歌の題名と、指揮者と演奏者の名前が書かれている。もう一枚の紙は、表紙と裏表紙で、表には第百回音楽祭という大きな飾り文字の下に、指揮者の前で不特定多数が合唱しているイラストで、裏にはそれより小さいイラストと、それを描いた人の名前、音楽祭が開催されるだろう日付が下の方に書かれている。
ワタシは少し気になった。第百回というのが。
「第百回……百周年、て事かい?」
「あ、はい。そうです、その通りです」
何の意味があるのか、三笠校長は何度も何度も、小さく頷いた。
そうか、これが一番中止出来ない理由だったのか。
「ここの学校は、今年が創立百周年なのです。その為の、給食の特別メニューも作りました」
「この音楽祭でも、何か特別な事を?」
「いえ、特別というほどのものでも……」
「あるのなら、言ってもらいたいな」
店長の言い方は詰問するような声ではないが、断れない気迫がある。
「あ、はい……音楽祭の閉会式の終わりに、六年生の発表クラスにクス玉を割ってもらおう、と計画してたんですが……」
「それだけかい?」
「それだけ……ですね。他に変わった事はしません。去年と同じです」
三笠校長は、よく考えて言った。その考えて居る隙に、店長は新たに注いで貰ったお茶を啜る。
「あの、それで……やはり、これはその、本気の文なんでしょうか。本当に誰か、自殺するつもりで居るんでしょうか」
三笠校長が、そわそわしながら訊いた。思えば、店長にこの人が意見を伺う発言をしたのは、これが初めてだ。
「そういう質問をするという事は、悪戯の可能性の方をむしろ疑ってる、と見ていいのかな」
店長はおいそれと簡単には答えず、むしろ相手に探りを入れた。
その言葉に、今度こそ三笠校長は黙り込んで考え込んだ。すぐには言えない内容なんだ。出来れば、腹の内だけに留めておきたいような。口にするべきか、否か。相談を持ちかけたこの人に言ってもいいのか。そんな風に考えて居るのが解る。
「……貴方は口が堅いですか?」
「少なくとも、スポーツ紙の記者みたいな反応はしないと誓えるよ」
この、浮世離れした雰囲気は、この場合相手を安心させたようだ。
「実は……石里 衛……ここの前校長が出したのでは、と思っています」
「ほぅ、恨みを買われる覚えが?」
「いえ!そんな事は!決して!
……大きな声では言えんのですが、彼の辞任は表向き移動になってますが、実は違うんです。愛人を囲っているのが解り、それで飛ばされた訳です」
うーん、珍しくは無い、と思うが、上にそういう事に潔癖な人が居たら、それはあっさり飛ばされるだろう。
「なので、彼が居なくなった事により、ちゃっかり校長の座に座った私に、逆恨みしてこんな真似をしたのかもしれない、と」
逆恨みと使う場合には、こっちも向こうを恨んでないといけないんだが。
店長はお茶を一口啜ってから。
「脅迫文は手紙として家に送られた、と訊いたけど、その封筒の消印はその校長が今いる所なのかな?」
店長のセリフに、はっとしたように立ち上がり、横の大きな机の引き出しを開け、封筒を取り出す。目を大きく見開き、じっくり封筒を眺めた。
「……いや、違います。市内でした。彼はもう、県外に出ています」
肩を落とし、三笠校長は言う。
「その意見は少し急ぎすぎだよ。書いた所と、投函した所が同じとは限らないからね。偽装の為、わざわざこっちに来たのかもしれない」
「あぁ、そうです!そうですね」
最もだ、といわんばかりに頷く。
「さて」
と、店長が言った。湯のみの中は空になった。
「そろそろおいとましよう。他にも行く所があるんでね」
「え、……あの、差出人は、結局誰なので……」
「いくらなんでも、初日で解るはずがないさ。もうちょっと、余裕を持っていこうよ。あと、一週間もあるんだ」
一週間しかないんだ!という、三笠校長の魂の叫びが聞こえたような気がした。
来る時、近くに見えるあの学校は何だろう、と思っていた場所にワタシ達は来ていた。此処こそ、先ほど店長が言って居た「他にも行く所」だった訳だ。本当に近く、歩いて十五分って所だろうか。
「ここの校長は生粋のコーヒー党でね、学校でもインスタントじゃなくて豆から挽いたのを飲みたいという人なのさ」
手にぶら下げた袋に、それが入ってるという事か。
「宅配業者に頼めばいいんじゃないですか」
「店の主にとって、商品というのは子も同じだよ。どんな人の手に渡るのか、最後まで見届けないとね」
確かに店長は、茶葉屋の主人としては申し分ない人だ。この社会に相応しいかどうかは別として。
広く、大きな正門から入る。ここの正門には、学校名は柱に縦に彫られていた。ワタシが見なかっただけかもしれないが、珍しいと思った。「私立英生高等学校」と掘られた石柱は、どこかの誰かからの寄贈らしかった。
「ちなみに、」
と、店長。
「さっきの三笠君は、ここの河出君----校長なんだけど----に私の評判を訊いたのさ。電話で言って居た。俳句クラブで顔見知りなんだって。彼も、別の誰かから訊いたんだろうね。似たような立場の人に」
店長は興味なく言った。この辺は、都会というより田舎に近い。大きなデパートや専門店も無いから、この辺りに住む割と上流階級に入るお茶好きの人は、「フォール・リーフ」で茶葉を求める。そしてそういう人達は大抵、他人や自分の評判を気にするものだ。
もっとも、買って行く人の大半は、茶葉専門店で買ったという名目が欲しいだけのようで、自分で味を確かめては行かない。そんな人には、たまに店長自ら理由をつけてお茶を淹れに行く事がある。ちゃんとした手順に乗っ取って淹れたお茶が、どんなに素晴らしいものであるかを、知らしめるように。が、それも相手に親切してあげた、というより茶葉の名誉を守る為、というのがしっくりくる。
それでも淹れ方を改めない人には、もう売らない。それで商売がやって行けるから、不思議と言えば不思議かもしれない。ワタシが店番している時でも、一時間に一人くればいい方、と言ってもよかった。まぁ、こうしてやってる宅配の方であるいは利益が出て……るのか?
ちなみに、茶葉専門店「Fall Laef」では、子供の小遣いで買えるリーズナブルな品物も取り扱っている。ティーバックは一つから買え、ちょっとしたパーティーに相応しいギフトパックだって揃えている。あくまで茶葉専門店なので、スイーツは無いが、茶葉だけは何でもあると断言出来る。ハーブティーも揃ってる。お茶関係の御用の際は、どうぞ「フォール・リーフ」へ。
などと宣伝をしていたら、校長室へ辿り着いた。私立のせいか、さっきの三笠校長の部屋より扉から立派なような気がする。部屋だって、運動場を背にした一階ではなく、二階の奥の大きな一角を陣取っていた。
店長がノックをすると、ドアノブが動いて戸が開く。その途端、ふわりとしたコーヒーの芳香が襲う。これほどはっきり香れた、というからにはついさっきまで飲んでいたんだろうか。
「あぁ茶紀さんか。いつもすまないね」
開いたドアから出たのは、さっきとは違い、いかにも校長然とした人だった。白髪交じりの髪はきちんとセットされていて、メガネの奥の眼は鋭い。着こなしたスーツは、当人をより立派に見せる事に成功している。
「----そうでもないよ」
店長のセリフが少し遅れたのは、心の中で「おとっつぁん、それは言わない約束だよ」とか言ってたからに決まっている。そーゆー人だ。
「それにしても、河出君には珍しい。インスタントを飲んだのかい」
匂いで解るとはさすが店長だ。
「まぁね、手持ちの豆が尽きてしまったものだから」
「言ってくれたら、持ってきたのに」
「そこまで手を煩わす訳にはいかないと思って。折角時間を割いて、定期的に運んで来てくれているのだから」
そうして、店長から紙袋を受け取る。
「あぁ、いい香りだ。やはり、インスタントとは違う」
鼻を近づけて、言う。
そして、店長に向けて言葉を放つ。
「……最近、三笠という人から話を聞いたりしていないか?」
最近もなにも、つい5分前までその人と話していた所だ。ワタシは河出校長にばれないように、店長を見た。これにはどう、対処すべきか。
「いや、特には聞いてないけど?その人がどうかしたのかな」
知らないふり、というスタンスを決め込んだようだ。ワタシも付き合い、ひたすら沈黙を守る。
「いや、この前、貴方の活躍の一つを彼に話したもんだから、早速何か話でも持ち込んでないか、と気になったもので。酒が入っていたせいで、いつもより口が滑ったんだ。貴方が下手に人に噂されるのを嫌うとは、知っているんだが。もしかしたら、電話番号も教えてしまったかもしれない」
そんなもん、店長じゃなくても嫌うに決まってる。
「ははは、それで腹でも立てるかと思って先回りかい。河出君らしいや」
「貴方の所の豆が飲めないとなると、ゾッとするからね」
河出校長は、口の端を上げて笑みを浮かべた。芝居かかった仕種だが、なかなか様になっている。
「昔は上に行けば、下を操れて楽だと思っていたんだが、それは間違いだ。こうして校長になって、嫌になるくらい解った。コーヒーの香りは、下手な精神安定剤より、よほど私をリラックスさせてくれる。無くてはならないものだ」
そう言って、大事そうに紙袋を触る。
「そこまで言ってもらえると、私としても幸いだね」
店長はコーヒーを褒め称えて貰え、とても嬉しそうだ。
「出来ればこの豆でさっそく振舞いたい所だが、あいにくこの後予定が詰まっている。次の機会で埋め合わせをさせて欲しい」
「解ったよ。君のシナモン・コーヒーはまた此処に来るまでお預けだ」
シナモン・コーヒー……って事は、シナモンが入ってるんだな(当然か)。心を安らげるアロマをフレーバーにまた使ってる辺り、この人は本当にストレスが溜まってるらしい。
用事はこれで全て終わった。
あの学校から最寄の駅は、各駅停車でしか止まらない駅なので、呑気に二十分電車に揺れる。
そして、「Fall Laef」に付いた。ティーショップではないこの店は、大胆に言うなら趣のある倉庫と言ってもいいかもしれない。
「さて、どうしたものかね……」
店長は、三笠校長の名刺を手に取り、ふと呟いた。
「瑠依さんに言いますか」
瑠依さん、とは店長やワタシと顔見知りの、刑事課の警部補・独身だ。多分三十近いんだが、おっとりしている気質のせいか、幼く見える。どんな人かと言えば、まるで保育士の見本のような容貌だ、と答える。
「いや、彼女の管轄とは違うから」
「自殺者が出れば関わりがありますよ」
「それもそうだね」
同意するような返事だったが、本気にしていないのが解る。
「やっぱり、三笠君宅に直接届けた、というのが気になるな」
「目的は音楽中止でも、本当の狙いは校長って事ですか」
机の上には、今回の「資料」が乗っている。プログラムのや、脅迫文とそれの入っていた封筒。ちなみに、封筒のあて先も機械打ちだった。ご丁寧に、プリントアウトしたのを切って封筒に張ってある。リターンアドレスは、勿論無い。契印の郵便局は市内のもの。日付は、昨日のものだった。それから察するに三笠校長の動向は、朝これを受け取り、一通り慌てふためいた後、河出校長が話していた店長の事を思い出し、連絡した、という具合だろうか。
素っ気無い店長でも、調べるべき事はちゃんと三笠校長に言付けておいた。ここ数週間だけじゃなく、何ヶ月も遡って、気になる動向をしている生徒は居なかったか。ならびに、クラス発表会が終わってから、急激に身辺の変わった、もしくは変わりそうな生徒(つまり、転校とか)は居なかったか。そして、同じ条件で教師にも。学校周辺をよくうろついている人が居たら、例えよく近所で知れている人であれ教える事、等を言って居た。この店にはファックスがあるから、それで情報を送ってくれと店長は言って居た。文章に書き起こす事で、当人も整理が出来るからよりはっきりした資料になるし、何よりこっちが見たい時に見れるのがいい。
「まぁ、もし本当に自殺者が出たとしても、三笠君の問題だしね。こっちが死ぬほど悩んでやる事ないさ」
それは最もだ。
ワタシは新しく煎茶を淹れ直した。
あの番茶も良かったが、ワタシはこの香りが一番好きだ。
あと一週間ある。という店長の言葉を念頭に置いた訳じゃないが、ワタシはさほど気にする事無く日曜日を過ごしていった。悩む事と言えば、何のDVDを見ようか、といった事くらいと、明日からまた学校だ、という事だ。サザエさんの最後のジャンケンを見ると、日曜日が終わったと実感する。
月曜日の朝、出がけの前に流し見る、番組の合間の短いニュースで、割りと近い所……丁度、あの小学校の辺りの川辺で、何歳かの少年の遺体が発見された、というのが流れた。初めの方は少し聞き流していた。まさかあの脅迫文の主なのか、と注意深く見ていたが、近所の高校一年生だという事なので、違うようだ。遺体に傷跡が少ない様子から、警察は自殺と事故で捜査を進めているとの事だった。
この日、店に行くと三笠校長からのファックスが結構届いていた。そこには店長が言いつけたように、近々転校予定の生徒(二年生の女子と、五年生の男子の名前があった)。転校する子は、まだ情報が入ってないそうだ。それと、来年赴任する教師、今年赴任してきた教師に、赴任した教師。それのリストだった。
いじめの事実は無かった、と書いてあるが、全面的に信じていいのか、迷う所だ。店長は、この日少しいつもよりまったりとしていた。聞いてみれば案の定、昨日から三笠校長の弟から、茶葉の買い付けに奔走していたとの事だ。
さて、火曜日。この日はワタシの図書当番の日だ。朱麻先輩と一緒に、学校施設にしては広大な図書館で、本を整理していく。広さのせいか、人は少なく見える。貸し出しを管理するスペース内で、堂々と本を読んでいた所で、誰も咎めないくらいは。
カウンターに、新聞を広げ、朱麻先輩はそれを見ている。この図書館には、外国紙も含め、七種類が常備されている。これは捨てないで、二学期の終学式前の大掃除に活用する。新聞紙で窓ガラスを磨くと、インクの効果で綺麗になる。
ワタシもワタシで、外国作家の推理小説を読んでいる。その主人公で探偵役でもある女性は、ティーショップのオーナーで、仕事に誇りと情熱を持って接し、客に憩いと安らぎを与え、信頼と利益を自分に齎している。これに比べると、店長とは掃き溜めに鶴だな。
とか思っていたら、携帯がバイブった。誰かと思えば、珍しい。店長だ。しかも、メールじゃなくて電話。
いくら今が無法地帯とは言え、大っぴらに電話するのは憚れるな。
こっそり、棚の奥に引っ込んで通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
『私だけど、さっき微妙に悪口めいた事考えてなかった?』
「まさかそんな事で電話してきたんですか」
『否定しないって事は思ってたんだね』
「えぇ、そうですとも」
『まぁ、それは本題じゃないんだ。今日の朝、三笠君から電話があったんだよ。
昨夜、学校に忍び込んだ人が出たんだってさ』
なんとまぁ。
「店長は今回と関係あると踏んでるんですか」
『三笠君に同じことを言ったけど、今は何とも言えないね。って事で今日行くから、一緒においでね』
「どうして」
『暇だから』
「店長の退屈にどうしてワタシが付き合わないとならんのですか」
『いつもウチの茶葉を振舞ってあげてるじゃないか』
「はい、バイト代も貰わず」
『牛乳に溶かすだけでいいホットチョコの元をあげるからさ。現地集合でいいかな』
「……えぇ」
店長の意思を改める事は、地球の地軸を曲げる事より難しい。仕方ないが、相手の要求を飲もう。
しかし、放課後となると、ちょっと家族に対していい訳を考えないといけないな。多分帰りが遅くなるだろうし。さて、何かいい理由は無いものか……呉にはなるべく厄介になりたくないな。
「阿柴?」
と、ワタシを呼ぶその声は、
「朱麻先輩。仕事ありましたか?」
「うんにゃ。ただ、声がしたからなんだろう、って思ってさ。電話か?」
「はい、店長からで……」
「そっか、阿柴ってバイトしてたもんな」
「まぁ、一応」
本当に、一応だけど。
「何か緊急の呼び出しとか?今日暇だから、抜けてもいいぞ。つっても、大抵暇だけどな」
おかげで本が読みたい放題でいいけど、と朱麻先輩は笑う。太陽の下の向日葵みたいな笑顔だ。
「いえ、呼び出しとかじゃないし、当番が終わってからでも……
ふと、ワタシは思いつく。そうだ、朱麻先輩に頼んではどうだろうか。
と、なるとこの一件を話さすべきなんだろう。まぁ、いいか。朱麻先輩は悪戯に吹聴する人でもないし、店長も誰にも言っちゃだめだよ、とも言わなかった。
「朱麻先輩、頼みたい事があるんですが……」
と、ワタシはなるべく長くならないように話した。話終わると、朱麻先輩は真剣に関心を抱いた表情になった。
「そっかー、阿柴って探偵のバイトしてたのか」
「いえ、茶葉屋なんですが……」
なるべく話を短くしよう、とした為、一番厄介な所は抜かしていたのだ。つまり、店長の事だ。この人の人柄を詳しく説明しようとすると、一日かかるかもしれない。なにせ、言えば言う程混乱する性格をしているから。
「うん、とにかくオレの家に来ているって事にすればいいんだろ」
解ったよ、というジェスチャーに、人差し指と親指で輪っかを作った。
「すいません。今度、埋め合わせをしますね」
「いいよ、そんなに大した事するでもないし。でも、解決出来たら、教えて欲しいな」
「はい、それは勿論」
ワタシと朱麻先輩には、ミステリ小説好きという共通項もあった。なので、こうして学年を超えて会話が楽しめる訳だ。推理小説の神様、ありがとう。
「でも、自殺予告か。ニュースでよく見るけど、身近で起こると、なんかなぁ、って思うなぁ。そういや、昨日も近場で死んだヤツが出たし」
「それなんですけどね、ワタシも店長も、それはただの方便じゃないかと思ってます」
「悪戯って事か?」
「いえ、多分、音楽祭を中止させたいのは本気だと思います。自殺する、ってのはそれを強行するだけの手段だけのような気がして」
「音楽祭を中止させて、誰が得するって言うんだろう……」
朱麻先輩が考え込むように言う。顔を伏せると、ワタシの見る角度から睫が長いのが解る。
「そうですね。おそらく、そこが焦点なんですよ」
ワタシは言った。
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