ワタシが朱麻先輩と出逢ったのは、ちょうどこんな空で、そして今日よりずっと風の強い日だった。
その日、ワタシは中等部から高等部に差し掛かる、一階の渡り廊下を歩いていた。
中途半端な時間帯のせいか、歩いているのはワタシ以外に居ない。
と、思ったら。
向かい側から、そこそこの量のプリントを持っている女性とが来た。多分、制服からして高等部だろうな。
ふいに、開けっ放しの窓から、強い一陣の風が室内に踊りこむ。
「あ、」
プリントは当たり前に散った。全部ではなく、3分の1程だが。
ワタシは決してお人よしではないが、目の前で自分の力で片付けられる惨事を目撃してそのままやり過ごす程薄情でもないつもりだ。急がなくてはならない予定も無いし。
「あ、すいません」
「いえ、」
と短く返事をして、黙々とプリントを拾う。
その最中、同じ紙に向かい、ワタシと相手の手が伸びた。
そして。
ずごばこーん!と頭にサッカーボールが当たったのは、その時だった。
よく、マンガの表現で頭に強い衝撃が襲った時に、星が散ってるけど、本当に散るもんだな……とか現実逃避で痛みを紛らわそうとして、でもやっぱり痛い。
駆け寄る足音が聴こえる。
「なぁ!」
何だか少年みたいな掛け声だけど、多分女の人だろう。当たった反動のまま地面に額をくっつけたままだから、顔が見れなくて確証が取れないけど。
その人は、窓を乗り越え、タン、と降りてきた。白いソックスが見える。
「今、こっちにボールとか……あれ、当たった?当たっちゃった??マジで??
うわー、ごめん!本当ごめん!!!」
「そんなには、」
痛くないですと、と言うために顔を上げる。
口調も少年みたいだけど、その顔はもっと少年らしかった。男みたいだ、という意味じゃなくて。夏休みに外出思いっきり遊んでいる男の子のような眼の輝きをしていたからで。世間やカリキュラムに廃れた感じは微塵もしない。
茶髪を通り越した亜麻色の髪は、染めたんじゃなくて、天然ものらしかった。大きなヘーゼルナッツみたいな双眸も、真っ黒ではなく青みが掛かっている。ハーフなんだろうか。
ふいに、相手がぎょっとした。
「おいお前!鼻血出てきたぞ!」
「え、」
あ、ホントだ。鼻の下あたりがベトっとする。ひさしぶりだなぁ、鼻血なんか流すのは。
「うわー大変だ!保健室行かなきゃ!!あ、動いちゃだめだよな。おんぶしてやろっか?」
「いえ、歩きます」
相手は先輩みたいだけど、ワタシよりかなり身長が下だ。それでも相手は、おんぶしようとしたみたいだけど。
さて、保健室だ。中高一貫のこの学院には、保健室なるものは2つある。勿論、中等部用、高等部用なんだけども、部活動の事もあるし授業以外では中・高等部入り乱れている。
連れられる用に、というか明らかに連れられて行った先は、高等部の保健室だった。やっぱり、中等部とはどこかが違う……ような気がする。ちなみに、散った残りのプリントは代わりに拾ってくれた。
「あー、先生居ぇや」
独り言みたいに先輩が言う。
保健室はがらんとしていた。黒板に付けられたコルクボードに、「緊急の人は中等部の保健室へ行ってネ」とか張り紙が貼り付けられていた。
「えーと、とりあえずティッシュ」
ぽん、と箱のまま渡す。豪快な人だ。2,3枚一気に抜いて鼻に当てる。血は止まっていたから拭うだけでいい。
「んで、冷やした方が良かったんだっけ?」
「もう止まってますから、大丈夫です」
「そっか。じゃ、記録紙書くから、年と組教えてくれよ」
「3年1組、阿柴夢です」
あ、名前はいらんかったな。
記録紙、というのは保健室を利用した人が書くもので、専ら怪我人調査票となっている。何処でどういう怪我を何でしたのか、というのとクラスと性別。前は名前まで書いていたけど、個人情報保護法とかの関係で廃止された。
「んーと。場所は渡り廊下で、原因はサッカーボールがぶつかって、」
これを後から見た人は、どういう状況で渡り廊下という室内で、どうしてサッカーボールが飛んできたんだろう、と物凄く疑問に思うだろうなぁ。
「怪我名は……鼻血でいっか」
「鼻の打撲にしてください」
いくら匿名とはいえ、鼻血は嫌だ。鼻血は。思わず、手も伸びていた。
で、保健室を後にしたワタシ達。
「ほんとぉぉぉにごめんな。もうどっか、痛い所無ぇ?」
「はい、無いです」
そんなに申し訳無さそうにされたら、なんだかこっちが悪い事したみたいだ。でも、ワタシが無いですと言ったら、そうか、と安堵して笑う。
さて、帰ろうか、とした時に、ワタシは非常に重要な事に気づいた。
帰り道が解らん……だって高等部自体初めて来たし、て事は保健室もそうだし。殆ど俯いて歩いていたから、場所の道筋もよー解らん……
……いや、こんな時こそポジティブ・シンキングだ。ドン・マイケルだ。ここがどんなに広くても、一時間くらい彷徨えば見知った場所に出るだろう。うん、きっとそうだ。そうに違いない。
「どうした?」
とか覚悟を決めていたら、てっきりもう行ったとばかり思っていた先輩が声を掛けた。
「…………」
言葉に詰っていると。
「道解んねぇのか?」
「……はい」
こっくり頷く。いつもなら、いいえ、って答えて適当に歩き出すけども。
ワタシは自分の危機(面倒事)察知・回避能力にそこそこ自信がある。どんなことでも対処出来る自分じゃないっって、一番解ってるから。
でも。
それでも、この人なら。
いいや、って思ったんだ。
「なら、道教えてやるよ」
さて、言われた事をどれだけ覚えていられるか……
しかし、先輩は。
「じゃ、行こうぜ」
手を取って、歩き出した。
小さな子にするような対応だけども、不愉快は気分は全く無くて。その手は柔らかくて温かくて、そればっかり気になって、その日は結局、道は全然覚えられなかった。
覚えた事と言えば、こっそり見た名札に書かれてあった、その先輩の名前。
日下部 朱麻、という名前だけ。
そういう縁があるせいか、朱麻先輩とは他の先輩より関わる事が多い。
廊下ですれ違っても、必ず挨拶をしてくれる。
そういう、ちょこっとしたやりとりの後に、ワタシはあの日を思い出し。
それと同時に手がなんだか温かくなり。
鼻が少し痛くなったような気がするのだった。
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