ヤバい、と炎は胸に手を当てて顔を引き攣られた。ここ一番の大ピンチであるのが、その表情からも窺えるくらいに。
手帳が、無い。
昨日一昨日と家に帰り、昨夜、爆と一緒に夜更けまで話し込み、そのまま寝入ってしまった爆の寝顔を、飽きる事無くずーっと見ていたせいか、しっかし寝坊してしまい、慌てて支度をしたのだ。その時、ついうっかり忘れたのだろう。
ヤバいぞ、これは……!
と、冷や汗も出だしてきた炎。
規律こそ全て。それは守って然るべきであり、そうでなければ悪である、という解り易い世界でこの失態は痛い。痛すぎる。バレなければいいが、その時が恐ろしい。
そして、炎にはそれより恐ろしい事がもう一つ。
もしも。
もしも、それを届けに、この魔窟へ爆がやって来ようものなら……!!
コンコンッ、と軽いノック音が頭を抱えている炎に届く。
「誰だ」
『オレだ』
ぶふぉ、と炎は口の中の空気を噴出した。だって、その声は。
「爆!」
「久しぶり、と言いたい所だが、昨日会ったばかりだな」
大急ぎでドアを開ければ、昨日会ったばかりの爆が居た。前見た時と、何も変わっていない(←当然)。
「なっ……何で此処へ!どうやって!!」
動揺しきっているせいか、最初喉が閊えて言葉が出なかった。
「手帳を届けにだ。忘れただろ、お前。
道中は斬に馬車を運転してもらった。外に止めてあるぞ」
あぁやっぱり!って言うかこれしか来る理由無いけど!
炎は再び悶絶した。
悶絶しながらも爆から手帳は受け取った。
「軍隊って割には、静かだな。訓練とかしているかと思ったんだが」
「訓練所は別にあるんだ。ここは待機する為のような……って、いや爆!悪い事は言わん!今すぐ帰れ!」
「……何だ。そんなに来られちゃ迷惑か」
憮然とした顔で爆が言う。
「いや、迷惑って言うかそうじゃなく……っ、って迷惑かも?じゃなくてだな、爆には何も落ち度は無い!無いんだがしかし………!」
ゴンゴン、とまたノック音がした。
『おーい、炎ー、開けれー』
間延びしたような声に、早速来た------!!とまた炎は頭を抱える。
「もしかして、仕事の最中だったか?」
だからそんなに迷惑そうなのか、とそこまで爆が訊く前に。
「ば、爆!訳は後から話すから、とりあえず隠れてくれ!」
炎は小声で言った。訊かれるのを恐れているように。
「か、隠れるって……何処にだ?」
その剣幕というか慌てっぷりに、爆は一方的な物言いに腹を立てるより戸惑いを先に出した。声の調子は、炎に合わせて抑えてある。
「クローゼットの中なら、お前も入れるだろう!?そして、俺がいいと言うまで顔を出すんじゃないぞ。物音もあまり立てるな!」
「あ、あぁ………」
何かよく解らんな、と首を捻りながらも爆はクローゼットに入る。中にはコートと予備の軍服が入ってるくらいで、楽に顰めた。
『早く開けねーとドア壊しちまうぞー』
そのセリフに、乱暴でいい加減なヤツだな、という印象を爆は持った。
クローゼットをしっかり仕舞っているのを確認し、炎は声の主を招き入れる。
「激、少しくらい待ってはくれんのか」
今炎が言った名前を、爆は脳内検索にかけてみた。聞いた事があるような、ないような。炎か真の口から出ただけの又聞きかもしれない。
「だって、いつもはすぐ出てくんじゃん。何かあったの」
「----で、用は何だ?」
激の問いに答えず、炎は言った。
「うん。実は」
と、顔の見えない爆でも、その表情は真剣なのが声で解った。激は言う。
「暇だから遊んで」
思わず、グラっと炎の身体が傾いた。爆もちょっとコケた。
姿勢を立て直した炎は、ヒクつく米神を押さえながら、
「お前なぁ……そんな事で、」
「って見せかけて、とりゃ--------!!」
変な掛け声を発し、激はクローゼットをがばーっと開けた。炎の頭の中が真っ白になる。
「へっへー、さっきからこっちに注意が行き過ぎだぜ?何隠してんだ?始末書か、まさか女………
っと?」
勝手な憶測を並べる激の前に居たのは、眼を丸くした爆だった。
激は、ふぅむ、と意味ありげに顎に指を添えて。
「まさか、隠し子とはな。げっきゅんびっくり」
「何がげっきゅんびっくりだ--------!!俺の甥だ!真の息子!お前も顔くらい知ってるだろう!」
「解ってる解ってる。突っ込み待ちだってば」
へらへらと手を振ってみせる激に、炎は本物の殺意を持った。そんな炎はほっといて、激は再び爆に向き直った。
「うーん、大きくなってますます父親に似てきたなー。今日はどうした?見学か?」
「なんだ、馴れ馴れしい。オレは貴様なぞ知らんぞ」
初対面の大人に対するにはあんまりな口調だが、炎はそれを窘めたりしなかった。爆は決して無礼者でも無作法者でもない。相手を見て、対応を決める。一概に決めたマナーだけを守り、善良な一般市民の仮面を被る輩とは違うのだ。
しかし激は、尊大な爆の言い方に怒りもせず、それどころかいよいよ面白そうに顔を綻ばせた。
「まぁー、知らなくても無理ねぇーな。何せ、顔見たのはおめーが産まれて本当に直後だし、その後の機会は全部真に潰されたもんなー」
「何故だ?」
「ちょっとうっかり、お前の生まれる前に女の子だったらカミヨミと組ませればいいよね、って零しただけなんだけどよ。未だにこの話題持ち出すと当時の怒り思い出して刀で切りかかって来るんだよなー」
あははー、と底抜けに明るく笑う激だった。
「んで、改めて何しに来たんだ?入隊か?」
「……爆は零部隊には入らん。俺の手帳届けに来ただけだ」
炎が、苦虫を潰しまくった顔で答える。
「届けにぃ?って事はお前、忘れちゃったの?」
「……まぁな」
炎の潰した苦虫の量が増えた。
激は、おどけたようにうわぁ、と悲鳴みたいな声を出した。
「最近、日明大佐機嫌悪かったからなー。減給どころか向こう三ヶ月便所掃除かもな。ま、頑張れ」
「やかましい!」
半ば覚悟していた事だが、改めて他人に(しかも全く人事ぽく)言われると腹が立つ。
「ほー、零部隊と言えども、罰則は学校と同じなんだな」
爆が興味深げに呟く。未知の領域でどうしようもなく好奇心を擽られるようだ。
「そ。ちょっとやってる事が特殊なだけで、後は何も変わらんのよ。だから、爆も来いよ〜♪」
「勧誘するな!爆は入らんと言ってるだろう!」
炎は激をぐいぐい部屋の外へ出しながら、
「そういう訳で爆、すまんが何も案内してやれないんだ。昼食も外で済ませてくれ」
「えぇー、俺が食堂に案内してやるのにぃ」
激がとても不服そうに言う。
「それを拒否してるんだろうが-------!!!
じゃあな、爆!」
そうして炎は、ちくしょう、折角爆が来たってのになんて別れ方だ!と血の涙を必死に飲み込みながら激を強引に引っ張って何処へ行くでもなく去って行った。
「炎!」
と、爆の声がして、炎は立ち止まり振り返った。
爆が、軽く手を振る。
「またな」
「あぁ」
それに炎も顔を綻ばせ、空いている方(激を掴んで居ない方)の手を振った。そうして、爆は帰って行く。炎は爆が曲がり角を曲がるまで、ずっとその背中を見送っていた。
で、姿が見えた時、はた、と思い出した。思いっきり至近距離に要注意人物が居た事を。
「嬉そーな顔してんなぁ、お前」
にや、とかいう笑った音が、耳に届いたかのようだ。
そして炎はこれからの厄介な日々を予感した。
予感しざるを得なかった。
<終わり>
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