こと、と小さい音を立てて、駒が置かれる。
それに、おや、とチャラはいつもは笑みの形にされている目を、軽く見開いた。
ふむ、と数秒考え込み、そして。
「参りました」
ぺこ、と対面に座る爆に、頭を下げた。
「ついに、1本取ったな」
「チェスをやり始めて1ヶ月弱で私を負かすなんて、さすが爆くんですね」
チャラの言葉に、爆は眉を顰めた。喜びたいのを、我慢しているのだ。
そんな仕種に、チャラはいつもの目に戻って微笑む。
そこに、ひょっこり雹が顔を出した。
「え、何?あれ、爆くん、チェス出来たの?」
終わりの局面を迎えたチェス版を見て、雹が言う。
「出来てちゃ悪いか」
「あ、いや、そうじゃなくてさ、出来るって知らなかったから」
剣呑になった爆の視線に、慌てて弁解する雹。
「何か、学校の方で流行ってるらしいですよ」
チャラが説明すると、雹は実に鋭い視線をそっちへ向けた。
「なんで、お前がそんな事知ってるんだよ」
「い、いえ、たった今訊いた所です」
雹の目に死の恐怖を感じ、説明を付け加える。
「チャラに勝ったって事は、爆くん強いんだ?」
くるん、と爆に向き直る。その表情は、チャラに殺気を飛ばした物と同一だとはとても思えないくらい、愛しさに満ちている。
「まぁな。クラスの奴らには全勝した」
「へーぇ。じゃ、僕ともやろうよ。いいだろ?」
いそいそと爆の対面に座る。其処にいたチャラは、強引にどかされる前にさっさと自分で退いてた。
「それでさ、」
駒を最初に位置に戻しながら、雹は言う。
「どうせだから、賭けしない?」
「賭け?」
その単語に、爆は危険を感じた。
「そうしたら、スリリングになってより楽しいと思うよ。
そうだなぁ、爆くんが勝ったら、ホットケーキ作って、ゴールド・シロップをそれにかけてあげる」
その言葉に、乗り気でなかった爆の目が輝く。
ゴールドシロップは確かに稀少で高価だが、雹の手にかかればあっさりいくらでも手に入る。そうしないのは、こういう時の切り札にする為だ。
「でね、僕が勝ったら、」
すでにゴールドシロップを味わえる心地でいるのか、素直に雹の言葉を待つ爆。
雹は、にこにことして言う。
「メイド服着て、えっちな事させてね」
なんでもない事のように、さらっと言った。チャラは颯爽嫌な予感を犇かせた。
「…………。 は、」
一瞬、何を言われたか解らなかった。
が、だんだんと意味を理解するにつれ、顔がそれに合わせて赤くなる。
「………なっ!ば、ばっ、馬鹿が!どうしてそんな事しなきゃならんのだ!!絶対しないぞ!!」
がたーん、とソファが転がる勢いで立ち上がる。その顔は、もう真っ赤だ。
「チェスに負けたら、だよ爆くん。負けなきゃいいだけだろ?」
「だけど……っ!!」
そうなる可能性が1%でもあるのなら、やりたくない。メイド服だなんて。何考えてるんだろうか、全く。
憤慨する爆に、雹はとても落ち着いて。
「まぁ、そうだね。僕も、負けると解っている勝負を強要したくはないし」
「何だと?」
「違うの?負けるって思ってるから、爆くんやりたくないんでしょ?まぁ、逃げるのも立派な戦略だしね。恥ずかしい事じゃないと思うよ?」
負ける、逃げる等の言葉は爆が最も拒んで然る単語である。
で、そんなものを言われた日には。
「誰が逃げるか!貴様なんか、オレが倒してくれる!」
こうなる。
あれから。
どれくらい経っただろうか。30分くらいか?
しかし、爆には2時間も3時間も経っているように感じられた。
「どう?今度こそ降参?」
「そんな訳あるか!」
「じゃ、早く駒動かしなよ」
「…………」
雹は強かった。それはもう、クラスメイトやチャラの比ではないくらい。
これで窮地に陥るのは何度目だろうか。その度に、なんとか切り抜けてきたのだが、今回のは。
必死に集中し、活路を見出す。そんな爆の表情を、とても嬉しそうに眺めている雹。
(あぁ、爆くん遊ばれている……)
こういう事には本人の性格が現れるのか、雹は決してあっさり相手を倒してしまう事は無い。どんなに弱くても。何度か弄び、相手に反撃出来そうな希望を抱かせた所で止めを刺すのだ。それこそ、見ていてとっとと決着つけてやれよ、とか言いたくなるくらい。
最も、爆の場合、やり方は同じでも目的を違うんだろうな、と思うが。
「じゃ、僕はやる事がありますので……」
雹は素っ気無くあっそ、と言ったが、果たして爆は気づいているかどうか。せめて、部屋を出る前、神様に爆の貞操を護るように祈ってみた。これで、襲われたらチャラは神が居ないという事をはっきりと誇示される事になる。
ばたん、とドアが閉まる。
ようやく、邪魔者が消えたか。雹の顔が、カナリヤの籠を前にしたチェシャ猫みたいなものになる。
「……此処だ」
こと、と駒が動かされる。どうやら、危機を回避できたみたいだ。
(でも、これならどうだ)
雹が駒を動かす。
すると。
「あぁ!」
爆が、腰を浮かさん勢いで声を上げる。へぇ、とすぐ解った事に感心した。この前まで、チェスのチの字も知らないようだったのに。
自分には見せなかったけど、色々と勉強したりして努力したんだな、と思う。そういうことはもっと評価されるべきだと思うが、当人がそれを嫌っていた。子ども扱いされていると思えてしまうらしい。
「………、…………。」
顎に手を当て、必死に考えて居るようだ。
さて、どうするかな、と雹は余裕の笑みを携え、紅茶を飲んだ。
5分は経ったみたいだ。すると。
「………った」
「ん?」
「…………参、った……」
消え入るような声で呟き、顔をどんどん俯かせる。項まで見えるくらいに。
膝の上の拳は間接が浮き出る程で、少し震えているように見える。
顔は見えないけど、多分真っ赤にしているんじゃないだろうか。負けたという屈辱より、その後の罰ゲームをやらされる事に対して、だ。
もしかして、涙まで溜まってたりして。
そう考えると、ぞくぞくしてしまう雹であった(変態め)。
「爆くんv」
雹が名前を呼ぶと、過剰なくらいビク、と肩を揺らして反応する。
「約束、忘れてないよね?」
「………っ」
顎にそっと指をあてて持ち上げると、案の定やっぱり爆には薄っすらと涙の膜が張っていた。舌で舐め取って、それを味わいたい。きっと、甘露だ。
「何だったか覚えてる?言ってごらん」
「…………!!」
一層顔を赤くし、涙を溜めて唇を噛み締める。普段の爆からはとても想像できない表情だ。
「言えないの?」
わざと挑発するみたいな言い方を取る。すると、いつもの爆が少し顔を覗かせる。
「っ、だから、メイド服着て……っ」
しかし、言う内容に再び羞恥に支配されてしまったみたいで。
「それの続きは?」
「………い、……言わなくても、解ってるんだろうがッツ!!!訊くな!!!」
もっと言えば、言わせるな、といいたかったんだろうが。
「ま、そうだね。ここでこんな事してても仕方ないか」
そう言って立ち上がり、爆の方のソファへと向かう。大したスペースも無いけど、じり、と雹と距離を置こうとする爆。可愛いなぁ、と小動物みたいな行動に顔を綻ばせる。
「それじゃ、爆」
切り替えを意味するみたいに、くん付けではなく、呼び捨てにした。
「僕の部屋に、行こうか」
「…………ッツツ!!」
声にならない悲鳴が、爆の口から零れる。
試しに抱き締めてみれば、途端にがちがちに固まる肢体。ぷ、とそれに噴出してみたが、多分気づいてはいないだろう。
吐き出される呼気が荒くなってきた。心拍数も限界みたいだ。
(この辺で潮時かな……)
実に名残惜しいけど、本気で泣かせちゃったら洒落にならないし。
雹は、ぱっと身を離した。
そして。
「はい、おしまい」
「………?」
言われた意味が解らなくて、きょとん、と雹を見上げる。無防備な顔で。止めると言った側からこれだもんな、と内心苦笑の雹。
「僕が、爆くんが本気で嫌がる事する筈ないじゃない」
「嘘つけ」
「……即答してくれたね」
「今まで何度もオレが嫌がる事しただろうがっ!」
「え〜、でも爆くんだって最後には………」
「……それ以上言ったら、殺す」
「爆くん、落ち着こう。チェス版はけっこう洒落にならない凶器だ」
雹が本気で怯えているのを見取り、爆はチェス版を置く。
「……だったら、最初からそんな意味のない事なんか、言うな」
この数十分で、自分がどれだけ沸騰していたと思うのだろうか。体が焼けるかと思った。
恨むようにそう言ってみるが、雹は至極嬉しそうに。
「意味なんて、十分あったさ!」
「………?」
追いつけない爆を置いて、雹は続ける。
「僕に追い詰められた時、活路を見出した時、それはもう色んな表情の爆くんを見れたさ!うん、どれも可愛かったなぁ、顔が真っ赤で、目が潤んでて!」
「…………」
その時の爆を思い出しているのか、どんどんエキサイトする雹様。爆の周囲の気温がどんどん下がっているとも知らず。
雹はなおも続ける。爆に向き直って。
「爆くんて、あれだよね。不遜に見せて何事にも動じません、て態度取ってるけど案外感情豊か、」
ごずん。
と、雹の頭にチェス版が下ろされた。
角が。
「なるほど。で、頭の傷か。ところでおまえ、早速血が滲んでるぜ」
「煩いな、お前の頭も真っ赤に染めるぞ」
爆がなだれ込むように自室に帰り、頃合を見計らって帰ってきたチャラに手当てをしてもらった後、激が美味い紅茶が飲みたいとぶらっとやって来た。いつもならすぐさま帰れと追い返すのだが、いかんせん頭部にかなりのダメージを追っていたのでそんな元気はなかった。
そして、おいおいその頭どうした。とうとう爆に三行半叩きつけられたか、いやいや落ち込む事は無いぞ。俺の予想よりずっと続いた、と激がからかい続けるのでざっと事情を話した。チェスの罰ゲームを使って、ころころ変わる爆の表情拝んでいるのを話したらこうなった、と。
「ま、お前の頭の傷なんかどうでもいいや」
「そうだね。僕も君の命とがどうでもいいや」
回復してきた雹は、激の抹消を企てている。
「爆、チェスが出来たんだなー。今度俺もやろうっとv」
にやり、と笑った激は大方ろくでもないことを考えて居る。雹がそれに確信を持てるのは、類は友をなんとやら、ってやつだ。
「冗談。爆くんとチェスしてもいいのは僕だけだよ。テメーは家で弟子としょっぱくやってろよ」
と、雹が言うと。
「ばーか。あいつチェス出来ねぇよ」
本当、遊び心に乏しいやつだよな、と愚痴みたいに零す。
しかし、雹は。
「え?だって、クラスで流行ってるんだろ?」
カイと爆は同じクラスだ。
疑問を言う雹に、激もまたその表情で返した。
「いやぁ?そんな話、一回も出てこないぜ?」
「でも、確かに………」
と、言いかけ。
(……って、まさか……でも、もしかして……)
「雹?おい、雹?」
激が考え込んだ雹の目の前で手を振る。反応がなのでマジックペンを取り出したら、すぐさま乱闘になった。
少し緊張しているを、軽く深呼吸することで落ち着かせてみる。
「爆……くん?」
軽いノックの後、呼びかけてみたが返答はなし。
まだ怒っているのかなぁ、と何気なくドアノブを回すと、それは開いた。
そのまま部屋に入る。爆はベットの上でクッションを胸に抱え、本を読んでいた。
「……爆くんさ、その………」
部屋に入った時、ちら、と雹を見ただけで爆はまた本に視線を戻してしまった。
やっぱり怒ってるのかな、と思いつつ、言ってみる。
「あのね、今、激が来てさ……あ、もう帰ったんだけど。で、激の言う事には、カイからクラスでチェスが流行ってるなんて聞いた事が無いってさ」
「…………」
爆は無言だ。
「だからね、その………
爆くん、もしかしてさ、本当は」
「………」
「僕とチェスがしたくて、覚えたの?」
「………」
爆は本を持っているが、それを読んではいない。何故って、ページがちっとも進んでないから。
ぱたん、と見せ掛けだったそれを傍らに置いて、爆はクッションに顔を埋めた。その横に、雹は座る。
「オレは、普通にチェスがしたかっただけなのに、」
「うん」
「……雹の、馬鹿」
「うん………」
ごめんね、と呟いて頭にキスをした。
「また、チェスしよ?」
「……罰ゲームとか無いなら、」
「しないよ」
「……本当か」
ここでようやく、爆が顔を上げた。やっぱり、顔が赤い。
「さっきも言ったじゃない。僕は爆くんが嫌がる事はしないよ。ま、照れてるだけの事はしちゃうけどね」
「またそうやって……!」
オレをからかう、といおうとした爆は、すっぽりと雹に収まってしまった。
「あぁ、僕って愛されてるなぁv」
心からそう言ったのが伝わったのか、爆は真っ赤になって落ちつか無そうに身じろいでいる。
「…………」
うぅ、と爆がくぐもっているのが聴こえる。
ふふ、とそれを愛おしく思う。
爆がチェスを覚えたのは自分とやりたかったから。それは、当人の口からも聞いた。
でも、それだけでもないだろう。いつだったか、ふいにチェスがしたくなって、その時雹はチャラを誘ったのだ。そう、そしてその時爆もその場に居た。しかし、この時爆はチェスを知らなかったから雹が誘う筈も無く。
チェスをやり始めて一ヶ月弱、とチャラは言った。あれも、一ヶ月くらい前じゃなかっただろうか。
ま、それはそれとしておこう。わざわざ確かめることはしない。
「本当、愛されてるよね」
「……2回も言わんでいい」
と、胸に拳を打ちつけられたが、全然痛くなかった。
(-----でも、)
その夜は、というか、その夜も爆と一緒に寝る雹。個々に自室を設けてるのが意味があるようなないような。
(罰ゲームはしない、って言ったけど、時期みてまた持ちかけてみようかな)
そうでもしないと、したいけどさせてくれない事山ほどあるし。メイド服着てあれこれ、てもの全く嘘じゃないし。
自分に身を寄せて眠る爆に、悪戯な笑みを浮かべる雹だった。
<END>
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