それは、とてもとても暑い夏の日の事だったのですが、目の前のこの人はそんな事を微塵にも思わないくらい、至って普通に立っていました。
その人は、誰かに似ているのですが、私は誰だかを思い出せません。それほどまでに、暑い日だったのです。こんな日のこんな時こそ、「脳みそが蕩ける」と形容すべきでしょう。そう、あの時の私はとてもうっかりしていたのです。
その人は、言いました。
「いいか、お父さんはまだ許さん。俺の事はお兄さんと呼べ」
「はぁ………」
正直、お父さんでもお兄さんでも、お母さんでもお姉さんでも何でもいい、と思いました。
何せ、今は山を3つ越えた村までお使いに行った帰りなのです。早く、家に着きたいのです。
話はそれますが、フンベツ山のあの小屋は、あんまり家とは思えないのです。思い出が無い訳ではありません。むしろ、抱えきれないくらいあの場所には詰まっているでしょう。
でも、私が帰りたい場所は、きっとそこじゃないんです。
恐れ多くも、帰りたい、長く留守にしても戻れる場所は、とある人の隣です。
一体、今は何処で、何をしているのでしょうか。
そうです。ここで正体不明の”お兄さん”と暢気に話している場合ではないのです。今すべき事は、さっさと用を済まし、体力を回復させて修行に勤しむ事にあります。
そうして、強くなるのです。あの人に比べれば、玩具みたいな強さかもしれませんが、玩具だって玩具なりに役立つ事もあるでしょう。……多分。
おまえに最近は、とある知人から理由不明の呪術攻撃も受けていて、そういう方面は不得手の師匠に代わり、まさに命がけの鍛錬が続きます。主に、それからの回避ですね。会得するのは。最近は他人に流せるようにもなりました。まぁ、彼にもこの際修行してもらうという事で。強くなって損はありませんよ。ハヤテ殿。
さて。
その”お兄さん”と後味が悪くならないよう、言葉を選んで別れました。
が。
小屋に着くと、そのお兄さんがちゃっかり居座っていました。
「………………」
こんな時、沈黙以外なにを出せばいいのでしょう。
お兄さんは帰ってきた私を見るなり、「腹が減ったな」とだけ言いました。
つまり、作れって事です。
普通の方ならム、とするかもしれませんが、師匠もだいたい似たような感じなので、私にはそれがすっかり日常だったりするのです。
殆ど、脊髄反射で準備をします。
こういう暑い日に、あえて辛いものを食べると、沢山汗をかいてすっきりします。私は、その爽快感が結構好きです。
これは好みが別れるので、”お兄さん”にそれでいいか尋ねてみました。
好みじゃない料理を出された怒りは、ピンク殿で十分学習しました。
訊いてみたら、それでいいとの事でしたので、ちゃっちゃか支度します。
簡単に炒め物と肉饅頭で済ませました。”お兄さん”は礼儀正しく、食前食後の挨拶をちゃんとしました。師匠にも見習って欲しいと心から思いました。
後片付けをしている私の背後から、「料理の腕は合格……」とかいうセリフが聞こえたような気がしました。空耳かもしれません。
-----この時まで、私は”お兄さん”が誰なのかが解らなかったのは、それは暑さではなく、何かの----多分、”お兄さん”が私に対して何かの術を掛けていたのかと思います。
でなければ、説明が付きません。
この時は、とりあえず私は”お兄さん”は師匠を尋ねて来た人だと思っていたので、師匠の不在を告げました。
が、”お兄さん”は私にこそ用があると言いました。
心当たりがなくて吃驚していると、手合わせを願おうと言い出してきました。私は、またも吃驚しました。
なんだかんだで結局する事になってしまいました。何だか、有無も言わさず逆らえないような雰囲気だったのです。
最近の私は、以前のように師匠の言われるままをこなすでなく、自分でメニューを考えます。その上で、師匠と組み手を願います。なるべく、ほぼ実戦に近づけるようにしています。
で、”お兄さん”と私の勝負の結果ですが。
----完敗でした。
10戦10敗。しかも決着が着くのに、どう甘く見積もっても1分もなかったでしょう。
悔しい。
最後に、地面に寝かされ、仰向けだった私に皮肉なくらい青い空が広がります。
悔しい。
これでも、強くなったつもりでした。師匠から、一本取れるまではいかなくても、少し本気を出させるようになりました。時々、拳が掠る時もあります。
----強くなった、つもりでした………
近づけたつもりでした。
でも。
やっぱり、まだまだ遠かったんです。
世界は広くて、こんなにも強い人が居る。あの人は、もしかしたら今、こんな人と対峙しているのかもしれない。
眼の奥がツンとして、何かが零れましたが、これは涙じゃありません。心の汗です!
泣いている場合じゃ、ないんですから!!
そんな私に、”お兄さん”は声を掛けます。
「気にするな。お前が弱い訳じゃない。俺が強かったんだ」
励ましているのか止めをさしたいのか、解らないセリフでした。
「だからお前は強くなればいいんだ」
そんな事は解りきってます。
でも。
他人から改めてそう言われると。
そうだなぁ、って何だか納得してしまいました。
強くなろう。うん。
それで、強くなる。
そう思うと、心なしか、身が軽くなったようでした。どうも、私は知らない間に、随分自分を追い込んでいたようです。
もしかして、”お兄さん”はそれに気づかせてくれたのでしょうか。
修行に付き合ってくれた事も込めて、礼を言おうとして身を起こすと、そこにもう”お兄さん”の姿はありませんでした。
そうして。
やっと、私は色んな事に気づきました。
修行修行ですっかり暦なんて気にしなくなってしまいましたが、この時期は先祖の魂が現世に置いて来た人達に会いにくる日だという事。
それから。
”お兄さん”が誰なのかという事も。
今度、”お兄さん”に会ったなら、その時は是非”お父さん”と呼ばせてもらおうと、私は思いました。
<終わり>
|