ふいに訪れた爆は、なんだかマフラーを口が隠れるくらいまで引き上げていた。
なんだ?とか思いながら茶を淹れる激(しかしあれでは飲めないような)。
ことん、と湯飲みを前に置くと、爆が話を切り出す。
「なぁ、激……」
「ん?」
「口紅の落とし方って、知ってるか?」
「はぁ?」
一瞬冗談かと思った。しかし、冗談にしても何だか妙だし、何より爆の目がそうとは言っていない。
て事は爆は本気で口紅の落とし方を知りたがっているようだが……何故だ?
「知らんのなら、いい」
と、事情を深入りされるのはゴメンだ、とさっさと爆は立ち去ろうとする。
「お、おい!ちょっと待てよ!」
激の手が爆のマフラーを掴む。
「あっ、」
その時、激は見た。見てしまった。
「……………」
「……………」
どうリアクションをすればいいのか、マフラーを握り締めたまま止まる激。
睨むような爆の顔は真っ赤で。
唇も真っ赤だった。
「ピンクの家に言ったら、他にも大勢居て、」
観念したのか、爆は事情を話しだす。
「なにやら新作の化粧とか試しあっていた所で」
「で、巻き込まれた、と……」
そうだ、と憮然としながらも頷く。
爆が説明してくれるのに、激はそれを聞き流しそうになる。何故って、唇に全神経や意識がいってしまって。
赤い。
朱い。
紅い。
緋い。
アカイ。
男共を手玉に取るような熟女がつけてそうなその色が、どうしてか爆に塗られている。彩られている唇が言葉を発するため、形を変える。それを見るのに、何だか背徳感というか倒錯感に襲われ、捉えられて抜け出せなくなるような感じがする。そして、たぶんそれを望んでいる。
「それで、慌てて飛び出して顔を洗ったんだが、ちっとも取れん。何かしなくちゃならんのか?」
「………」
「おい?」
「………」
「激!」
ぼーとしている激に、渇を入れるついでに頭も殴る。
「え、あ、あぁ、何だっけ?」
本格的にぼけっとしていた激は、殴られた事に文句も言わない。
何をそんなに気を取られとるんだろう、と自分がその原因とは露とも思えない爆だった。
「だから、これを取るにはどうすればいいんだ、と訊いている。貴様、そういう事にも詳しそうだしな」
「失敬な……人を遊び人のよーに。俺はこう見えて一途なんだぜ」
「そうか?」
「そうだよ」
丸きり信用の無い目に、ちょっと爆の中での自分のイメージはどうなってんだろうか、と泣きたくなった。
こんなに、こんなにたった一人だけ想い続けているのに。
「まぁそれはともかく、知ってるんならさっさとやってくれ」
「それが物を頼む態度かっつーの」
と、言いながら使われた口紅を調べる為、爆に近寄る。
いつもなら、ここまで迫ればぶん殴られる距離だなとか思いながら。
こうして改めて見ると、やっぱり頭の芯がくらりとする。
アカイ、アカイ、アカイ………
アカイ。
「どうなんだ?」
と、いう爆の声には、と我に返る。
「え、えーと、そうだな。
こりゃハードなものを塗られたもんだ。水じゃ落ちる訳がねーやな」
「ハード?こういうのにハードとかソフトがあるのか?」
「まぁな………」
と、爆とやり取りしている声が何処か遠い。自分の声も、部屋の隅の方から聴こえているみたいだ。
見えるのは娼婦みたいに赤い唇ばかり。
立ちくらみしたみたいに、くらくらする。
なんで。
なんで爆は、こんなもん塗られたんだか。そしてどうして俺の所に来たんだか。
俺は爆が好きなのに。好きなヤツの唇がこんなで、我慢出来ると思ってんのか。
キスがしたい。したくてたまらない。
あぁ、そうか。だから口に紅を塗るのか。
じゃ、してもいいよな……
爆は、激が黙り込んでいるのは落とす方法を考えて居るからだと、思っている。なので、顎の裏を指で支え、顔を上げたのもそれの一環だと思った。
しかし。
「………っ、?」
激の顔が近づいてきたのは。
なんだ、と訊こうとした唇は、塞がっていた。
たかが口を合わせるだけの行為の癖に、受け止める事が出来なくて後ろに倒れてしまう。それでも、口付けは続いていた。
「……っは、爆、見ろよ……」
何処と無くぼやけた視界の向こう、激が笑う。悪戯に。いっそ無邪気に。
「こんなにしたのに、全然俺に色、移ってねぇ……」
な?と唇を撫でた指を自分でも見て、言う。
そしてまた重ねた。
ふぅ、3日ぶりの我が家だ、とカイは帰宅した喜びに身を包んで戸を開けた。
やっぱり、我が家はいいなぁとか思いながら。
「ただいま帰りました………って、ひぃぃぃぃっ!師匠---------!!?」
3日ぶりに対面した師匠は、部屋の隅っこで膝を抱えて蹲ってひたすら瘴気を放っていた。
「ど、どうしたんですか師匠!!?」
「……あ〜……だめだよ、俺はもうだめだよ……こうして生きてる価値すらねぇよ……」
あれから。
どれくらいああしていたのか知らないが、爆が何かしなければ今も続いていたかもしれない。それくらい、激は飛びまくっていた。
結局は、爆が思い切り激を突き飛ばし、その隙にテレポートして脱出した。
その後、激は呆然としていた。多分30分くらいは。
そしてその後、こうしてひたすら部屋の隅っこで落ち込んでいたわけである。
「あああ、俺は……俺はなんて事をしてしまったんだぁぁぁあああっ!!」
「あぁっ師匠、落ち着いて!とにかく、自首しましょう!ね!?」
「お前の中で俺はどんな事した事になったんだこら」
「え、婦女暴行とか?」
「………」
爆といい、カイといい一体自分を何だと……しかしこの場では強ち的外れではないので、なんとも言えない。
「……て言うか……どーしてお前は今日居なかったんだよ!それが悪い!それが全部悪い!!」
2人きりだから、理性に止めが刺されたのだ(と思う)。そうでなければ、例え爆が口紅つけていよーが、猫耳つけていよーが(ありえない)ガーターベルトつけていよーが(もっとありえない)自分はとち狂ってあんな真似はしなかった。いやしてないに違いない!!
「なっ……!本当は師匠に依頼が来たくせに、面倒だからって私を出向かわせておいて、そのセリフは無いでしょう!!」
「うるせー!お前が悪いっ!全部お前が悪いー!!郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも全部お前が悪いからだー!!」
「私が生まれる前から郵便ポストは赤いし電信柱は高いですよっ!」
カイ、主張すべきはそこではない。
ともあれ、実りの何も無い師弟喧嘩は遅くまで続いた。近所に迷惑がかからない、山奥だったのは幸いだった。
激が呆然としていた頃。
爆は、ピンクの家に戻っていた。
チャイムはついているが、お構い無しにドアをドンドン叩く。それでも、室内にテレポートで無断に入らないのが爆らしいというか。
「はいはい!こんな真似すんのはアンタね、爆!」
「あぁ、いかにもオレだ!」
怒鳴るピンクに爆も負けない。
「あら、アンタ唇まだそのまんまなの?」
あれから結構な時間は経ったと思う、と言うピンク。
「……いくら洗っても落ちん。どうすればいいんだ!さっさと落とせ!!」
「んもう、そんなに怒らなくてもいーじゃない。そりゃ、悪戯したのは悪かったけどさ」
怒髪天を突く爆に、ピンクが言う。
「……ま、とりあえずそれ落としてあげるから、中に入りなさいよ。誰かに見られたくないでしょ?」
感情的な声を上げてしまい、憮然とした顔で恥じているような爆を招いた。
ピンクから手渡された液で拭うと、面白いように赤色が落ちる。
化粧が肌に乗るのは油が入っているからで、水で落ちない場合もある、とさっきのピンクの説明を思い出す。
コットンで唇を拭う。その感触で、それよりもっと熱いものが触れたのを、否応無しに思い出してしまった。
「…………」
「爆ー?落としたら顔洗いなさいよー」
「……解っている」
ついでに、赤くなった顔を覚まそうと思っていた所だ。
家には、ピンクしか居なくて、少しほっとした。皆色々忙しいのよね、といったピンクの顔は寂しそうだったけど。
(……暫く、あそこにはいけんな)
結構、激の家は居心地が良かったのだが。蔵書の類はあるから調べ物に事欠かないし、人ごみの喧騒からは遠く離れているし。
……違う。
そうじゃなくて。
それもあるかもしれないけど、もっと違う理由が。
ついさっきまで解ってたのに。
そして、その”ついさっき”の境になるのは。
「……………」
唇を拭う。
なんで、あいつ、こんな真似。
今まで何回行っても、しなかった癖に。
今日のオレとそれまでのオレに、違いなんて。
違いは。
「……なぁ、ピンク」
「んー?」
生返事のピンク。
「女というのは、皆口紅をつけているものなのか……?」
「へ?うーん、まぁ大人はだいたいつけてるんじゃない?」
「そう、か……」
「何なの?今の質問?」
と、振り返った時、爆の姿は無く。帰るなら挨拶くらいしろよ!と憤慨するピンクだけが居た。
あいつの好きな人は、真っ赤な口紅をつけているんだろうな。
自分を激は一途だと言った。
そうだな、認めよう。とてもお前は一途だ。
それをつけただけの自分で、見間違えるくらい。
外はもう暗くて、今日が終わろうしていた。
「うわっ!何だかすげー嫌な予感がした今ー!!」
「師匠!そんな事言って掃除さぼらないでくださいよ!そこの穴、師匠が開けたんですよ!?」
「んだよテメーだって机真っ二つにしやがって!!」
<続く>
|